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よわい個体

言語性優位の発達障害で感覚過敏持ちの私がよわいなりに日々を生き延びる記録

深呼吸の仕方がわからない君のこと

フィクションっぽいもの

フィクションっぽいもの。

 

 

君はいつもひどく怯えていて、世の中の全てに混乱していました。

 

外を歩けば様々な音が君めがけていっせいに入り込んでくるし、人の足音や電車の振動は君が望んで感じたくもない震えとなって君の身体を不快に揺らします。

君はいつもその不快感と恐怖と、わけのわからない焦燥感に心臓を焼かれるようで苦しかったのでした。助けを求めて周りを見渡してみても、周囲の人はみんなそれを何とも感じていないようで、ひとり立ち尽くして呼吸を荒げる君を、まるで奇妙なものを見るかのように一瞬だけ見つめ、でも次の瞬間にはその興味も失って、そっぽを向いて歩き出すのでした。

 

ぼくは途方に暮れる君の手を取り、安全な場所へ導きます。大丈夫だから、落ち着いて、息をして、深呼吸だよ。ぼくの声に君は目を見開いたまま首を振ります。君は深呼吸の仕方を知りません。

鼻から息を吸って、ゆっくり。お腹に空気を入れて、そう。腰のあたりが膨らんだら、吐くのは口から、細く長く。

簡単でしょうと顔を覗き込みますが、君はますます苦しそうに顔を歪めるばかりです。

鼻から入れた息をお腹に送り込む、君ができるのはそこまででした。口から吐く、細く、と声をかけるのも間に合わず、君は大きな空気の塊をどっと口から吐き出します。焦って君は短く鋭い息を今度は胸に入れます。吐く息もまた大きく早くなり、呼吸はますます乱れ、君はもはや苦しそうな表情をすることもなく、ただ電池の切れたような、一切の感情が抜け落ちたがらんどうの顔で、ただ目からは涙を零し続けながら浅い息を繰り返しています。

 

慌ててぼくは君を自分の腕の中に引き寄せます。ほそいほそい身体に腕を回し、君の背中を撫でます。ごめんねと心の中だけで君に謝りながら。君は近頃ようやく自分が他の多くの人とは違う特性を持ち、ひどく生きづらい世界を生き抜くはめになったことに気づき始めました。君はずっと、世界はこんなに大変な困難に満ちているのに、他の人たちは混乱もせず生きていてとてもすごいと思っていました。平気な顔をしていられない自分の方に何か落ち度があって、例えば堪え性がないだとか、気合が足りていないだとか、とにかく大変なのは自分が怠け者で劣っているからなのだと信じていました。そうしてずっと、生まれてからずっと、自分を「良し」とできずに苦しい世界を生きてきました。

 

君は気づき始めている、君自身が決して「できるのにやらない怠け者」ではないことに。しかし生まれてからずっと信じていた、常識であるところの「自分は良いものではない」という思い込みを壊すことは、君にまた新たな混乱をもたらすものでもありました。だから君はこうして、ひどく混乱し、深呼吸がうまくできないというそれだけでまた「自分は良いものではない」という常識にかえろうとして、でももう君は真実に気づき始めているので更に混乱し、がらんどうの顔で涙を流すのでした。

 

背中を撫で続けていると、固い枯れた小枝のようだった君の身体は少しだけ柔らかく解け、静かな呼吸に波打ちはじめました。君はやっと感情を取り戻し、ぼくの胸に顔を擦り付けながら大きな声で泣き始めます。あたたかい涙がぼくの服を濡らし、あっという間にそこを冷やしていきます。ぼくはただ君の背中を、髪を撫で、君が泣き止むのを待っています。「自分は良いものではない」という誤った常識から抜け出そうとする、これは君の産声なのでした。

 

さて、きみよ。

小さなノートパソコンに向かってこの文章を綴るきみよ。きみはぼくの腕のなかにいる君です。きみとこの君は、ほとんど同じものです。

しかしきみにはぼくがいません。きみはまだ、深呼吸の仕方はおろか、声をあげて泣く方法さえ知らないからです。きみの産まれなおす日を、決して交わらない場所から待っています。

 

 

***

ストレス解消に深呼吸とかいうけど難しくないですか、というお話でした。